3日目 5月12日
西葛城神社→信太山駐屯地修史館
→昼食「和食麺処サガミ」→湊川神社→新神戸駅解散

西葛城神社・楠神社 正式参拝
吉澤正喜宮司による説明。
楠木正成が湊川で戦死した際、この地の豪族松浦氏がこれを悼み、かたわらに楠神社を設立したと伝えられている。
当会会長の名前は「葛城」。何か、深い歴史的な縁を感じる。

信太山駐屯地(別名菊水連隊) 「修史館」
ここでも二手に別れ、陸上自衛隊第37普通科連隊長一等陸佐伊藤亮基さんのお話し。その後、楠木正成公ゆかりの建水分神社に納められていた奉納刀等、貴重な資料や、現在の第37普通科連隊も使用するシンボルマーク「菊水」に関する楠木正成公の資料を見学。
現代にも楠公精神が生き続けているのを感じる。

和食麺処サガミで昼食
湊川神社へ行く車中「青葉茂れる桜井の」練習
『楠公の歌』 落合直文 作詞、奥山朝恭 作曲、明治36年
――桜井の訣別――
- 青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木(こ)の下陰に駒とめて
世の行く末をつくづくと 忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に 散るは涙かはた露か - 正成(まさしげ)涙を打ち払い 我が子正行(まさつら)呼び寄せて
父は兵庫に赴かん 彼方(かなた)の浦にて討ち死にせん
汝(いまし)はここまで来つれども とくとく帰れ故郷へ - 父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人 いかで帰らん帰られん
この正行は年こそは 未だ若けれ諸(もろ)ともに 御供(おんとも)仕えん死出の旅 - 汝をここより帰さんは 我が私の為ならず おのれ討死為さんには
世は尊氏の儘(まま)ならん 早く生い立ち大君(おおきみに) 仕えまつれよ国の為 - この一刀(ひとふり)は住(い)にし年 君の賜いしものなるぞ
この世の別れの形見にと 汝(いまし)にこれを贈りてん
行けよ正行故郷へ 老いたる母の待ちまさん - 共に見送り見返りて 別れを惜しむ折からに またも降りくる五月雨の
大空に聞こゆる時鳥(ほととぎす) 誰か哀れと聞かざらん あわれ血に泣くその声を
――敵軍襲来―― - 遠く沖べを見渡せば 浮かべる舟のその数は
幾千万とも白波の 此方(こなた)をさして寄せて来ぬ
陸(くが)はいかにと眺むれば 味方は早くも破られて - 須磨と明石の浦づたい 敵の旗のみ打ちなびく 吹く松風か白波か
よせくる波か松風か 響き響きて聞ゆなり つづみの音に閧(とき)の声
――湊川の奮戦―― - いかに正季(まさすえ)われわれの 命捨つべき時は来ぬ 死す時死なでながらえば
死するに勝る恥あらん 太刀の折れなんそれまでは 敵のことごと一方(かたえ)より - 斬りすてなん屠(ほう)りてん 進めすすめと言い言いて駆け入るさまの勇ましや
右より敵の寄せくるは左の方(かた)へと薙(な)ぎ払い 左の方より寄せくるは - 右の方へと薙ぎ払う 前よりよするその敵は 後ろよりするその敵も
見ては遁(のが)さじ遁さじと 奮いたたかう右ひだり とびくる矢数は雨あられ - 君の御為(みため)と昨日今日 数多の敵に当りしが
時いたらぬをいかにせん 心ばかりははやれども
刃(やいば)は折れぬ矢はつきぬ 馬もたおれぬ兵士(つわもの)も - かしこの家にたどりゆき 共に腹をば切りなんと 刀を杖に立ちあがる
身には数多の痛矢串(いたやぐし) 戸をおしあけて内に入り 共に鎧の紐とけば - 緋おどしならぬくれないの 血潮したたる小手の上 心残りはあらずやと
兄のことばに弟は これみなかねての覚悟なり 何か嘆かん今さらに - さはいえ悔し願わくは 七度(ななたび)この世に生まれ来て 憎き敵をば滅ぼさん
さなりさなりとうなづきて 水泡(みなわ)ときえし兄弟(はらかた)の 心も清き湊川
当会特別賛同人の中村敏幸氏によると、幼少時代この歌を遊びながら歌っていて、皆知っていたとのこと。

湊川神社 正式参拝(垣田宗彦宮司)
湊川の合戦は、多勢の足利軍とわずか700騎あまりの楠木軍との戦い。
兵力の差はあまりにも大きく楠木軍は追い詰められわずか70騎余となりもはや、これまでと大楠公は弟の正季卿と「七度人間に生まれて朝敵を滅ぼそう」と誓い合い、兄弟刺し違えて、生涯を閉じる。
・巫女さんによる「剣の舞」
・sayaによる国歌斉唱と「青葉茂れる桜井の」
・正式参拝
楠木一族の天皇陛下をお守りして欲しいという想いが伝わってくる様な、荘厳な雰囲気。

楠木正成公殉節地(戦没地)
延元元年(1336)5月25日湊川の戦いで殉節された楠木正成公とご一族の偉業を称え偲ぶ楠公祭が今日まで開催されてきた。
神能殿
館長と垣田宮司より説明を受ける。垣田宮司を中心として集合写真を撮る。

嗚呼忠臣楠子之墓(楠木正成墓碑)
1692年徳川光圀公が、約半年かけてお墓を建立。
黄門様自ら「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字を書き、裏面には中国明の儒学者・朱舜水の文書を刻ませる。
(朱舜水の文書)

楠木正成公は自分の一身を国に捧げ、わが身を国家のために犠牲にすること以外はなさらなかった。死を覚悟しても、ゆったりと落ち着いて大義に就き、一家の私事に及ぶことなく、すべて国のことのみであった。その混じり気のない忠義が太陽にまで到達するような人でなければ、討死することがわかっていながらも、整然として取り乱さず動じない態度を保つことは出来ないはずである。これは楠公だけでなく、親も子も兄弟も同じである。誠に粋なことである。昔から今日に至るまで、上は皇室から身分高き人々、下は一般庶民まで、皆口々に楠公の事を賞讃するところからみると、これは、楠公とその一門が、人々よりすぐれていたからであろう。
お墓が建てられてから大楠公精神は世に広まり、特に、幕末勤皇思想に大きな影響を与える。吉田松陰・高杉晋作・西郷隆盛など、多くの志士達がみなこの墓前に至誠を誓い、明治の新しい国づくりに大きく貢献することとなる。
明治5年明治天皇の思し召しにより、湊川神社が創建され、大楠公精神は、国中に輝きわたる。
その後、三姉妹燦DAYの収録を経て、新神戸駅で解散。
l (編集後記)
大東亜戦争敗戦後、日本の非軍事化・民主化を進めていたGHQ内では、天皇を頂点とした精神的な団結力が日本人を戦争に突き動かしたという考えから、日本人の精神的改革のため「神社を破壊すべきだ」という過激な意見もあり、今回訪れた神社の宮司の口々から大東亜戦争後、GHQから目をつけられ、一体これからどうなるのか分からないという不安があったと聞く。
占領軍は天皇陛下と陛下を支える愛国神社をワンセットにして歴史から葬りたかったのだと思う。彼らは、短期決戦ではなく、長期的戦略で、皇族数を激減させ皇室が自然消滅することを計画し、それが今日の皇位継承問題に繋がっていく。そして、天皇陛下を支える神社も、同時に衰退していくことを目論んでいたのだと思う。
かつて当会顧問であった故加瀬英明氏が深刻に話していたのを思い出す。
「歴史上最大の国難が南北朝時代であった。なんと朝廷が2つに分裂してしまった。しかし現代の危機はそれ以上であり、皇統そのものが消滅するかもしれない!」
幕末動乱期、楠公精神に触発され、勤皇の志士たちが立ち上がり、明治という新しい時代を作った様に、現代の今こそ、天皇陛下の守護者たちが立ち上がり、先人たちに恥ずかしくない日本を創っていかなければならないと思う。(堀口文良)